那須野ヶ原は九尾の狐の伝説にたとえられるように不毛の土地であった。この土地は広大な扇状地にあり、薄い表上の下は厚い砂礫層から成り立っている。砂や小石混じりのこの土壌は保水力が弱〈、雨が降っても水はたちまち地下深く浸透してしまう。そして、風が強く、特に冬期には北西の季節風が吹き荒れ、風速15mの強風も稀ではない。そのため土壌の風食はきわめて大きい。また、春の風もせっかく植えた作物の種はおろか沃土まで飛散させてしまう状況であった。このような過酷な気候条件の中にも生活している人々がいた。これらの人々は地中深く井戸を掘ったが水を得ることが難しく、飲料水にも事欠く有様であった。約380年前の江戸時代初期に初めて蛇尾川から水を引くことに成功した。これを墓沼用水と呼んでいる。さらに熊川や木ノ俣川を開削し取水してきた。これらが巻川用水であり、旧木ノ俣用水である。しかし、素堀であり、砂礫層という浸透性の高い地盤につくられた水路は漏水が多く、また、もろい地盤は土砂崩れを頻発し、よく通水障害を起こした。そして末端に行くほど水量を確保することが困難となった。多くの先人の努力に関わらず、この土地は人間を拒否し続けてきた。この地域に生きる人々にとって毎日の生活が水を求めるためのものであり、正に那須野ヶ原の歴史は「水との問い」そのものであった。明治に入って那珂川からの取水に成功した。これが那須疏水である。だが、これとても那須野ヶ原の状況を大きく変える要因とはならなかった。那須野ヶ原の保水力の悪さは、同時代にできた安積疎水や明治用水と比較してみればよく分かる。那須疏水の灌漑効率は安積疏水の約60分の1、明治用水の18分の1である。那須野ヶ原の保水力の悪さは、これら他の二つの地域と比べても明らかであった。どんどん水が地面に浸透してゆくため、水田を張りたくても張れなかったのである。戦後、那須野ヶ原には引き揚げ者を中心に多くの開拓者が入ってきた。当時、既存の用水は常時漏水がはげしく、多くの人々の生活水の確保が問題となってきていた。また、飲料水として表流農水を使用していた。そのため腸チフスや赤痢などの伝染病が多発、用水の改修工事が急がれた。しかし、用水改修工事には多くの困難と犠牲が伴った。昭和41年には新本ノ俣用水隧道工事に参加した地元住民25名が死亡するという大惨事も引き起こした。それでも多くの先達の血と涙ぐましい努力により徐々に水路は整備されていった。「風」の対策として、この土地では幾多の工夫がこらされた。住居に屋敷森を設け、また、農地の表土を守るための防風林を植えた事である。これは全国的にみてもきわめて珍しい那須特有の風景である。昭和42年から始まった国営事業部須野ヶ原総合開発によってこの地域の風景は一変した。河川本の流量は春の融雪期や梅雨の時期に大幅に増加する。しかし、この時期の大部分の水は使われることなくそのまま下流へ流れてしまっていた。そこでダムを建設することにより、この時期の水を貯えておき、水の安定供給と洪水対策を図ったのである。この目的のために深山ダムや板室ダムが建設された。さらに同様の目的のために西那須野には赤田調整池、黒機には戸田調整池、そして湯津上のファームポンドなどが建設された。また、それぞれが独立して運用されていた那須疏水、新・旧木ノ俣用水、暮沼用水の四用水は効率的な水利用の実施のため根本的に改革された。すなわち高林用水を加えた幹線水路を設けることによって各用水の相互利用が可能となった。さらに水路はU字溝、暗渠、サイホン等を用い、パイプライン方式も取り入れて漏水を極力おさえた。これによって不毛の土地は肥沃な大地へと変化したのである。今夏は全国的に干ばつが続き、渇水を訴える地域をテレビ、新聞等が毎日報道していた。しかし、かって水利の悪い土地であった那須一帯は断水はおろか節水されることもなく今夏を乗り切れたのである。最近の国土庁による国民意識調査では国民の70%近くが首都移転に関心をもち、新首都の居住環境として「自然と調和した豊富な緑」「東京から新幹線で1、 2時間程度」のところを期待している人が多いという。国内で北海道を除いて、平地にこれだけ雑本林が残っている地域は他にないといわれる。近くに福島空港もできた。那須一帯は新首都としての条件に合っているところが多い。近頃、無秩序な宅地転用によって屋敷森や防風林が急速に減少しつつある。今からこれらに対処してゆき、この地域の特色でもある「風」を克服できれば国会誘致もあながち夢ではないと思う。
那須歯科医師会沿革史
平成7年(1995)6月