
明治という時期は医療界においても朝三暮四の時代でありました。明治30年代になっても医療界の状態をみると漢方医はまだ3万名もおり、それに対して医師(洋方医)1万数千名、その時歯科医は約600名でありました。
医師(洋方医)にとって他の医療従事者は極めて目障りな存在でした。明治39年(1906)には「医師法」が制定されます。この法律の目的に歯科医は初め気がつきませんでした。歯科医もまだ医師の端くれに考えて傍観しておりました。
清国から帰国した血脇はこの案文を見て愕然としました。その法案は歯科医と漢方医を排除するのが目的だったのです。なんとその第一条は「歯科医ハ、医師ニアラズ」という露骨な文章から始まっているのです。
これは、かつて平時忠が「平家にあらずんば人に非ず」と豪語したものを彷彿させる傲慢な文言でありました。血脇は急遽有志を集め会合を持つが、迫る危機を認識できない歯科医たちに焦燥感を募らせておりました。
この法案が国会で可決されれば医師の身分は法律で確立されるが、歯科医は医師としての法律上地位がなくなるのです。医師側に掛け合って歯科医も医師に含めさせてもらうべきか、血脇は、これは現実的には無理と判断しました。圧倒的医師数に比べれば歯科医など取るに足らない僅少だからです。交渉しても粉砕されるだけです。
医師側はこの法案を7年もかけて密かに練り上げていたのです。歯科医は医師法により完全にしめだされることが分かりました。そして「医師法」が国会へ提出されるのが間近に迫っております。もう時間がありません。医師法と並立して歯科医師法の成立を目指しました。そのため医師法丸写しの「歯科医師法」を作り、なんとか医師法と同時提出に漕ぎ着けたのです。
この法案を書いたのは、広瀬武郎が起草し法学士岡田湖太郎に託して修正を加え議会へ提出したとも、血脇と論争した川上元治郎が書いた説などがあり、今となってはよく分かりませんが、とにかく急場しのぎの法案であったことは間違いありません。
そして法律的にも歯科は完全に一般医科から分離し、よく言えば独立独歩を踏み出すことになりました。漢方医は医師としての資格を失い、やがて淘汰され、民間療法として細々とやっていくだけとなりました。

