
話しは戻りますが、明治28年(1895)6月、日本医事週報主筆で眼科医の川上元治郎は「歯科界の地位を高尚ならしめるには、歯科を内外科、産科、眼科のごとく医学中の一分科として、一般医学を終了した後に、特に歯科の術を専修する者をもって歯科専門ならしめるにある」と説きました。いわゆる医学一元論であります。
これに対して歯科医学校経営に携わっていた血脇守乃助は、ただちに反論「歯科医術を一般医術と同じようにみなされたことには賛成できかねる。歯科技術は義歯、充填などの美術的細工を含んでいて、これは一般医術にみられない特色である」としました。
血脇としてみれば一般医学の履修後に歯科を習得するようになれば、なお2,3年を要するため歯科医を望む者は稀となる。学校経営も危うくなるとの認識があったと思われます。
そして医学二元論の立場をとりました。川上元治郎と血脇は激しい議論を戦わせているものの親交を重ね、川上はその後、血脇の清国出張なども世話しており、いわゆる刎頚の友ともいえる間柄でありました。
このような状態で血脇守乃介が打ち出したのは歯科の「特殊性」という言葉でありました。それは「補綴」です。つまり人体の失われた臓器(正確には器官)の再構築ということです。
当時は人口内耳も人工皮膚も人工関節も眼内レンズもペースメーカーも無い時代であり、現在のように心臓にステント手術が行なわれたり、また、人工弁置換術が行なわれたりするなど想像できない時代でありました。人工物といえば義歯だけだったのです。「他科においては臓器の再生はできないであろう。」というのが自負でもあったのです。ついでに言えば英名Prosthodonticsをこの「補綴」という用語に意訳したのは花沢鼎であります。
しかし、この医歯一元論は後々まで尾を引くことになります。その後、血脇の門弟でありながら佐藤運雄は医歯一元論を唱え、一方奥村鶴吉は血脇の意を解して医学二元論を謳い、明治37年代、共に大論争を交えました。
佐藤運雄は米国の歯科大学(DDS)、医科大学(MD)、を卒業し、ダブルライセンスを得て帰国後、東大講師、満鉄の南満堂大教授、歯科医学校校長、日大歯学部を創設し、学部長となり、さらに医学部創設に関与し、最後は日大総長まで登りつめましたが、生涯、医歯一元論者でありました。
奥村鶴吉は血脇の意思を継承し医学二元論者でありました。この方は小学校で神童いわれるほど優秀であり、医術開業試験前(学説)、後期(実地)と相次いで合格したのは17歳のときでありました。このような若年で合格したのは空前絶後のことであったといわれております。
しかし、開業免状は20歳以上でなければ下付されませんでした。そのとき血脇から声が掛けられ歯科医学校の助手となり、血脇の片腕として手腕を発揮し、その後米国歯科留学も果たしております。
奥村は米国に行き、直接の指導教授から、米国式の医歯分離教育のほうが効率は良いと聞かされ、丁度、講演に来校した科学細菌説で有名なベルリン大学のミラー教授もドイツとアメリカの歯科教育を比べると教育システムなどからみても医歯分離教育の「アメリカのほうがよい」と奥村に語ったとのことでした。
奥村自身も歯科を医科から独立させるべきだとの感を益々深くしたといわれております。しかし、歯科はいまだ科学として重きをなしているわけではない、とも述べています。そして、佐藤運雄と奥村鶴吉は生涯のライバルとなるのです。

