⑦東京帝国大学歯科学教室


持針器

明治36年(1903)東京帝国大学に歯科学教室が開設されます。これは歯科医学の発展を期して開設されたわけではありません。入院患者の便宜上、必要に迫られてやむなく開設されたものでした。

しかし、歯科主任へのなり手がいなかったのです。まだ、市井の歯抜き師や香具師のイメージが残っておりました。いやしくも帝大卒の医学士がそのような輩と同類にされる歯科主任など誰もなりたくなかったのです。真平御免だというわけです。

歯科設立を提唱した第二外科教授佐藤三吉は困り果てておりました。その時、既に新潟の病院の外科部長への転出が決まっていた石原久に話をもちかけてみました。

すると石原から就任承諾を得ることができました。石原は帝大教授というポストに目が眩んだのです。石原はその後官費で3年間、欧米に歯科留学し、帰国、初代歯科学教授となりました。しかし、石原は、診療はできず、またやる気もなく、手術もできず、といって研究をするわけでもなく、人力車で大学に来て、人力車に揺られて帰宅する日々でした。

石原時代の歯科受診統計資料によると年間の患者実数はほとんど50人以下の2桁であり、35人とか20人とかの年度もあるのです。ちょっと考えられない数字であります。石原の後、教授となった都築の時代になると数字は一挙に3桁になるのです。こうしてみると石原の時代の歯科がいかに振るわなかったかが一目瞭然であります。やる気満々で入局した若手医局員は拍子ぬけしてしまいました。やがて憤慨に変わって行きました。

石原は自分が歯科主任教授でありながら、歯科臨床にまったく関心をもたず、歯科は医学のカテゴリーに入らないなどと述べ、評論家のような態度でした。一説によると歯科に係わる一編の論文も書かなかったといわれております。

在米中の佐藤運雄は丁度歯科留学に来ていた石原久から誘われて、帰国後東大歯科に入局しました。佐藤運雄は有能であり帝大卒の医局員を差し置いて講師に昇進します。学閥の強い時代に帝大卒以外で、講師まで昇格したのは佐藤運雄が初めてではないかといわれております。しかし、歯科に対する石原の姿勢を疑問視した佐藤運雄は早々に退任してしまいました。

大正3年(1914)島峰徹は8年に及ぶドイツ留学から帰国しました。島峰は帝大卒業後、ドイツに留学し、ドイツでトレポネーマパリダムの純粋培養に成功し、論文も書き、ヨーロッパではそれなりに名前が知られるようになっていました。彼が何故歯科を選択したかは不明ですが、帰国後歯科学教室に入局したのです。帰国後ドイツ語で学位論文も書きました。その上司である石原は学位がなく逆転現象となってしまったのです。

しかしながら、島峰も石原の無気力な態度に嫌気がさし、僅か6ヶ月で講師を辞し東大をあとにしました。その後、医局長であった北村一郎を始め金森虎男や桧垣麟三など次から次へと教室を辞めていき、帝大卒の医局員9名全員が東大歯科学教室を辞めてしまうという異例の事態へ発展していきました。

教室を辞した金森虎男や桧垣麟三等が次々に島峰に弟子入りし、また米国へ留学していた長尾優は帰国するや東大へ戻らず、真っ直ぐ島峰の下へ馳せ参じてしまいました。この長尾優という方は、後、東京医科歯科大学学長となります。この方は東京帝大医学部を卒業後、早くから歯科に傾倒し、東大歯科学教室に入局しました。当時帝大卒の学士といえば現在では考えられないほど錚錚たる存在でありました。学士に「様」がつく時代であったのです。

しかし、医学部教育の中には歯科のことはほとんど無く、特に補綴がわからず、そこの技工士に教えを請うたとの事です。この事が長尾にショックを与えたようです。歯科は技術(手技)と材料に委ねられると痛切に感じ、その後、米国へ歯科留学し、補綴を専攻しました。米国では歯科の手技を主に学んでおり、日本から行った各専攻の留学生同士の交流会では話すことがなく困ったことなどが彼の著書に書いてあります。

長尾は他科には出来ない失われた臓器の再構築に魅力を感じたのではないでしょうか。歯科は医学と理工学の2輪の上に成り立つもので、医学に対抗し「歯学」なる言葉を立ち上げました。長尾は、こんな手間と熟練を必要とする歯科実習は医学部の教育課程に取り入れられるわけがない。断然別枠での教育をするべしとして、医学二元論者でありました。

ところで、東大歯科学教室を辞めた医局員たちが、島峰の下に結集したということは、島峰という人は、かなりカリスマ性があった方と思います。石原は島峰に対して、自分の弟子を横取りしたとして、「島峰は策謀家だ。俺の後は絶対に継がせない」と言っていたほど馴染むことは無い状態になりました。

大正9年(1920)歯科教室対局者9人が石原に対して教授退職勧告状を送るという事態が生じました。勧告状出状に際し、医科大学学長になっていた佐藤三吉の自宅を訪問し、「もし先生(佐藤)が、この情けない歯科学教室の現状を善処して下さるなら、この勧告状は出さない」と迫ったが、佐藤はただ「困った、困った」と言うばかりであったといわれております。

なお、これは余談ですが、医局長であった北村一郎は「俺は、歯医者をやりたいんだ」といって名古屋で歯科医院を開業してしまいました。帝国大学卒業後、歯科医学校や歯学部で教鞭をとった医師は何人もおりますが、戦前実際に歯科医院を開業したのは後にも先にも彼一人ではなかったでしょうか。この9人のうち5人は後、教授になっております。残りの4人のうち2人は歯科に関する論文や評論など書いているのでその後も歯科を専攻したと思われます。

残りの2人の方のその後は分かりません。歯科を開業したかどうかもわかりません。どなたかご存知の方がいらしたら教えて頂きたいと思います。帝国大学を卒業して、歯科を選択した者は全部でわずか22人しかおりません。とにかく、歯科に対する差別意識が極めて強かった往時に、帝国大学医学部を卒業した者が敢えて、歯科を選択したこれらの方々に改めて敬意を表したいと思います。戦後、やはり帝大卒の石原寿郎も歯科医院を開業しましたが、一年足らず閉院しております。

歯科とは                                       next