
島峰徹は単一の官立歯科大学の構想を模索するようになりました。いわゆる医学二元制です。
そして、官立歯科大学設立の運動を関係機関に働きかけました。
島峰が関係各省庁へ学校開設の陳情に赴くと、行く先々の官僚が言う言葉は決まっていて「官立の歯科はダメだね」歯科は私立に限ると、耳にタコができるほど何度聞かされたことかと、同行した長尾優が記しております。
石原の無気力な態度は官界に既に広まっていたのです。
とかく評判の悪かった石原久ですが、大正15年(1925)今度はこんなことを言っております。
「歯科医学は医学の基礎の上に組み立てられたもので、医学より離れた所の独立した歯科医学の存在というものはない。
従って将来歯科医育に関して、基礎医学は医・歯共通的のものとし、臨床学に進むに至って初めて医業各専門の課程に分離すべきである。以下略、」
これは医学一元論であり、島峰徹の考えに対する牽制でもあったと思います。
とにかく島峰の運動が叶い昭和3年(1928)わが国初の官立の歯科医学校が設立されました。教授陣は全て帝大卒の医師で固めました。島峰は校長となります。しかし島峰の構想とは違い、大学とはなりませんでした。
大学とは学の奥義を究めるというわけですが、専門学校は術の習熟を目的とする職業学校なのです。国は官立の歯科といえども大学にはしなかったのです。
その後、島峰は医師と歯科医師との二元制の溝をなんとか埋めようと折衷案を考えます。
また、後に島峰の推薦で東大教授となった金森虎男も同様な案を模索しますが、いずれも日の目をみることはありませんでした。

