⑨医歯一元論と全国歯科医専同窓会連合


オートクレーブ

 昭和17年(1942)国民医療法や日本医療団の設立となります。戦争が泥沼化するにつれ、経済も悪化してきて、問題は成長段階の子供たちの体格、身長が著しく低下きたのです。また、開業医は現在と同じく人口の多い都市部に集中する傾向があり、多くの無医村の問題も発生しておりました。

そこで、この法案は医療従事者に今までのような治療だけでなく、予防に対する指導の義務付けと地方への医師の適正配置を計ったのです。これにより、従来の医師法、歯科医師法は廃止となりました。医師、歯科医師は同一法の支配下に入りました。今までの歯科医師法のタガがはずれたのです。

この新法の出現は医学一元論者にとっては、新時代の到来と映ったのです。この前々年の昭和15年(1940)は皇紀2600年となり各地で奉祝行事が行われました。そこで、歯科医側としても祝賀行事を考え佐藤運雄と加藤清治が発起人となり、全国の歯科医学校へ呼びかけ、記念歯科医学会を立ち上げ、会長に島峰徹を就任させ、無事成功を収めました。

そこで、この学会を成功させた役員たちはその後も全国10校の同窓会同士で交流を重ねておりました。いつしか、彼らの間では医歯一元論が共通の話題となりだしました。佐藤運雄の思想が彼らの心を捉えていたのです。これが歯科医学専門学校全国同窓会連合という形で結集していくのです。

昭和16年(1941)11月には大政翼賛会主催、医新体制協議会が開催されました。これは「歯科医師の一元化」について島峰徹、佐藤運雄、加藤清治ら7人の有識者で話し合いが行われました。それは歯科医専出の歯科医師に、さらにある程度の研修をさせて医師の資格を与えるという案でした。それに対して出席していた血脇、奥村は一元化反対意見を述べております。

そして昭和17年(1942)2月、国民医療法成立となります。それまで佐藤運雄は事あるごとに医歯一元論を唱えており、佐藤の思想は広く知られるようになっておりました。また、軍医不足が少しずつ深刻になってきておりました。同窓会役員同士でも歯科医師のなかで希望する者を、一定の期間研修させ、研修後に医師にさせる道が開かれてもいいのではないかという主張がなされるようになりました。

これとは別に歯科医学校の校長レベルの集まりもあり、そこでも医制に関して議論が続けられており、これを制度として実現しようとする政治的な動きが、医歯一元論のイデオロギーとなっていきました。

この信奉するイデオロギーで統一すべく、集会を開いたり、雑誌に投書したり、などして活発な運動を始めました。これが、やがて全国で歯科医学校11校のうち10校が全国歯科医専同窓会連合という名称の下に医学一元に向けて結集するようになりました。
これに反対を唱え続けていたのは、この組織に参加しない血脇の歯科医学校一校のみとなりました。遂に政治家までがこの10校の方に肩入れするようになってきていたのです、この時、血脇は日本歯科医師会長でありました。


「血脇が公的な立場にあっても、なお自説に固執し、いつまでも多数意見を無視し抑圧を続けるなら、その席は誰かにかわってもらわねばならない」と言った論法になってきたのです。つまり血脇の会長職罷免要求です。そして歯科医学専門学校連合同窓会報告大会が開催されようとしています。同窓会の力関係でいえば10対1になったのです。

血脇を戴く歯科医専側はこの大会で血脇の辞任が要求されたら、それこそ一大事、なんとしてでもこの大会を阻止しなければならないと危惧しました。血脇の門下、松宮誠一ら数人が警察署長を同道して会場に押しかけ「大会決議を中止せよ、そうしなければ暴力行為が起こる」と恐喝したのです。

しかし、大会は決行されました。佐藤運雄が大会会長に選出され、暴力沙汰が起きることもなく大会宣言を決議して、無事終了しました。「新医界の建設のため医師、歯科医師の一元化を期す」という一文は明記されましたが、血脇の辞任要求するような文言は慎重に除外されていたのでありました。

血脇は、かろうじて危機を脱しました。佐藤運雄は苦労人なのです。血脇を追い詰めるようなことはしなかったのです。佐藤に惻隠の情が働いたのです。明けて昭和17年(1942)国民医療法において、血脇は官選で、なんとか従来どおり日本歯科医師会長に就任することができました。なお、この時、日本医師会長は国から更迭されております。

その後、佐藤運雄の夢、医歯一元論は違った形で一部実現します。昭和19年(1944)3月歯科医師の医師転用は具体化したのです。それは戦争による軍医不足が起こったからです。歯科医師に医師免許を与える編入科(80名)が東京医学歯学専門学校に設置されました。

翌、昭和20年(1945)には慶応大学と慈恵医大に附属医学専門部が設けられ、慶応からは99名が合格し、慈恵医大においても144名が卒業したのでありました。これによって、後、日大総長になる鈴木勝や血脇門下の松宮誠一も医師資格を取得しております。これはすべての医療計画が本土決戦にそなえたものであったのです。戦後、GHQ(総司令部)の指令により、戦時中に作られた日本の法案はことごとく無効とされ、編入制は終了となりました。