⑩大学昇格


吸引機

 さて、現在、日本全国には、大学756校、短大434校、合わせると大学と名前がつくものは1190校もあります。しかし、明治29年までは「大学」と名前がついているのは東京に1校あるのみでした。

1校しかないわけですから、固有名詞がなく、ただ「大学」でした。明治29年に京都に大学が出来るのに伴い、識別するために東京にあった大学は東京帝国大学と称し、京都は京都帝国大学となり、その後、東北、九州に帝国大学ができました。すべてが官立でありました。

それでも明治時代には、大学と名前がつく学校は日本全国で4校のみでありました。大正に入って、私立専門学校側はこれまでの私立に認められていない大学昇格を求めて、国へ圧力を一層増していきました。

ついに大正7年(1918)「大学令」および「高等学校令」が制定されます。これによって、長年の懸案であった私立専門学校に大学昇格の道が開けるようになりました。

そして大正9年(1920)慶応、早稲田、明治、法政などの私立8校が最初の私立大学となりました。翌年には単科である東京慈恵会医学専門学校が大学昇格を果たしております。この大学昇格運動は当然歯科医学校にも波及してきました。

大正8年(1919)12月、在京のある歯科医学校の学生たちは大学創設期成学生大会を実施、学生たちは熱狂し、以後大学昇格運動は激しさを増して行きました。翌年にはもう一つの在京歯科医学校も大学昇格期成学生大会を開催しております。しかし、これらの学生運動も大正9年(1919)3月には終息となります。学校側は学生達に昇格運動を中止にするように要請したのです。学生たちが、国の不条理を糾弾することは政治的色彩をおびていると思われ、当局から弾圧を受けるのを学校側は恐れたのです。

大学令による学部とは、法学、医学、工学、文学、理学、農学、経済学および商学とする、というものでありました。歯科はその大学令の学部に認められなかったのです。つまり、国は歯科に対して研究を診療に生かす専門領域の発展を期待していなかったということになります。専門学校として教育に専念していれば良いといったところでありました。

昭和3年(1928)、前述しましたが、初めて官立の歯科医学校が設立されました。しかし、官立といえども大学とはなりませんでした。歯科にたいして国は冷淡でありました。歯科が大学昇格を果たすのは皮肉にも敗戦によってもたらされるのです。

昭和20年(1945)8月終戦、日本は占領されGHQ(総司令部)の指令のもとに日本政府が統治するという間接統治方式がとられました。分野ごとに専門部局が設けられ、各部局による行政改革が開始されました。行政改革はいずれも日本人の想定をはるかに超える厳しいものだったのです。

各分野ではGHQの意向を直接聞く会が設けられるようになりました。医療系学校に対する行政改革は、医療と教育の二つの面から行われました。医療行政改革の担当はPHW(公衆衛生福祉局)でした。歯科の担当はリジリー中佐(セントルイス大学歯学部卒)でありました。

この占領政策の動きを冷静にみていた奥村鶴吉は昭和20年(1945)10月25日リジリー中佐を招待して懇親会を開きました。出席者は文部省から専門教育課長、歯科医学専門学校の校長6名、これにアメリカ留学経験者2名でありました。このとき話題になったのは学校教育の内容改善でありましたが、歯科が大学教育からはずされていることは米国人の眼に奇異に映りました。

中佐は「文部当局は何故デンタルスクールを大学にしなかったのか」と質問しました。文部省の課長はしどろもどろになって「今後、その対応については省内で協議する」と繰り返すばかりでありました。そこで中佐は文部省の返事が遅れるようならば、私が文部省へその返事を直接聞きに行くと畳み掛けました。文部省はさぞやあわてたことでしょう。
「あの時の言葉を列席者はいまでもよく覚えていることと思う」と後に奥村は述懐しています。

GHQ渉外局は早くも10月28日に歯科医学専門学校を大学に昇格させる方針を発表しました。そのため文部省は、歯科医学専門学校が大学昇格を願い出た場合は善処すると発表せざるをえなくなりました。10月25日という日は奥村の智謀により戦後の日本の歯科教育の方針が、この瞬間に定まったといっても過言ではありまん。

すなわち、歯科の大学昇格とアメリカ式の医学二元制が決定した歴史的な日となったのです。奥村と論争した医歯一元論の佐藤運雄はこれをどう思ったことか。また、この懇親会に歯科医学校校長として出席していて、医歯一元論の運動にも参加していた加藤清治も内心どう感じたことか。やはり出席していた医学二元論者の長尾優は大いに満足したのではないでしょうか。奇しくも、奥村と長尾は共にペンシルベニア大学卒でありました。戦後の歯科教育はこの二元論者方々の方針で技術(手技)中心となりました。

さて、果たしてこれで良かったのかは評価の分かれるところであります。すなわち、ヒトの身体を医学教育の段階から顎口腔領域とその他の全身とに分断してしまったのです。



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