明治16年(1883)、専門科名が口中科から歯科に代わって4年目、この年、歯科にとっては受難の幕開けとなりました。「医師資格」を法律で規制することの是非を巡って、当時の元老院で白熱した議論が交わされました。
各条文を改定の後「医師免許規則」が布告されたのです。従来専門科目として歯科と同じ取り扱いを受けていた産科と眼科は外科や内科と同じ医術という名称で一般医学に一括されました。
そして医師免許を取るには前期(学説)、後期(実地)の2回の試験を受けなければならなくなりました。2回とも合格しなければ医師免許交付されないのです。この両方の試験を年間に合格することはかなり難しかったようです。
それに対して「歯科外科の儀は普通外科手術とはやや異なるところあり」との見地から、歯科試験は別枠にされてしまいました。歯科の分岐点はここから始まるのです。
「硬い歯の齲蝕を削り充填する西洋歯科は今までにない技術で、それなりに評価はできる。しかし、きわめて限られた医術であり、複雑な全身の機能や深い知識を必要とするとも思えない」、当時の審査官からみれば、歯科とは診療対象が口の中のそれも「硬い歯」だけ相手という極めて幅の狭い医術であり、複雑な人体の機能や知識を深く知る必要もあるまいという、その程度の認識でありました。
小幡が「歯科」という、あまりにも「歯」という人体の一小器官に限局した科目で申請したため、ズバリ「歯」のみしかを治療しないというイメージを与えてしまい、口腔の他の臓器の疾患へ目を向けることが損なわれてしまったのです。
そのため医術試験と歯科試験が大きく分離する事にはなってしまったのです。なお、これは現在の基準ですが、歯科でいう「口腔の診療領域」とは次の部位を指します。上下歯槽、顎骨、顎関節、硬口蓋、軟口蓋、口腔底、口唇、舌(舌前3分の2)、頬粘膜、唾液腺(舌下腺、顎下腺)(耳下腺は除く)以上の部位であります。
また、インプラントのサイナスリフトなどで上顎洞にまで診療範囲が拡がり、耳鼻科などから領域を侵されていると一部懸念の声も上がっております。
顎口腔領域の疾患に対応する口中科あるいは口腔科などといった診療域に、幅の広いエリアを現す科名で申請していたら、また事態は大きく変わっていたことでしょう。
小幡の「歯科」受験申請は後世に悪しき影響をもたらしたのです。そして歯科の試験は1回のみでよいとされました。別枠にされた上、試験は1回のみでよいとされ、ここに一般医術と歯科医術の間に大きな格差が生まれてしまいました。歯科は一般医学界からはじき出され、別の道を歩むこととなりました。
医師開業試験と分離された歯科医師開業試験は明治17年(1884)に初めてが行われました。合格者の第一号は青山千代次という方です。法律上は、この方が近代歯科医師第一号ということになります。
高山紀斎が明治23年(1890)に設立した歯科医学校は経営不振に陥っておりました。当時は医師資格を取るのは、ほとんど検定試験で合格すればよいのであり、わざわざ高い授業料を納めて学校に行く必要がなかったのです。
高山はそれまで私財を投入して、学校経営を行なってきましたが、明治32年(1899)遂に学校経営の破綻を宣告しました。それを引き継いだのは血脇守乃助であります。
この方は世間的には野口英世のスポンサーとしてのほうが知られております。血脇は慶応義塾を出てから新聞記者や英語教師をしていました。ある日、英字新聞ヘラルドの米国歯科医師の広告が目に入りました。まだ、日本においては歯科医というのは社会的にそれほど認知されておりませんでした。
この混沌とした時代に、この道に入って開拓の鍬を入れれば前途は開かれると考え、歯科医を志したといわれております。血脇は高山からの学校継承という形ではありましたが、まったく経済的支援を受けることはできませんでした。
血脇は奔走し、明治33年(1900)なんとか歯科医学校の開校にこぎつけました。血脇の学校経営が成功していなければ、高山の名は歯科医学史には残らなかったと思います。そして、さらなる難問が待ち構えておりました。歯科医存立の危機が迫っていたのです。


